先日、ある患者さんのお看取りでマンションのお部屋へ向かう途中、エレベーターで他のお住まいの方からお声をかけていただきました。「○○さんのお宅に行かれるんですか?」「最近お見かけしなくて、お加減が悪かったでしょうか」――どれも、その方を気にかけてくださっている温かい言葉です。
ただ、その場で私が選んだ反応は、笑顔を返しながらも、訪問先や患者さんのご様子については曖昧に受け答えする、というものでした。ご質問に率直にお答えしないのは、決して冷たくしたいからではありません。患者さん・ご家族のプライバシーを、最後の瞬間まで守り抜くためのお作法だと、私は考えています。
訪問診療では、お部屋の中で行う医療行為そのものだけでなく、私たちがどなたのお宅に伺っているか、いつ伺っているか、ご容態がどうか、といった情報のすべてが、患者さんの大切な個人情報になります。一見、何気ない日常会話の中にも、配慮すべき瞬間がいくつも潜んでいます。
この記事では、訪問診療医がエレベーターや廊下で具体的にどう振る舞っているのか、その背景にある医療者の守秘義務、ご家族にお伝えしておきたい当院の姿勢、そしてともに在宅を支える医療介護スタッフの皆さまへの実務的なヒントを、できる限り具体的にお伝えします。
目次
■なぜ「お茶を濁す」ことが、患者さんを守るのか
◎医師には法律で守秘義務が課されている
医師は、刑法第134条で「正当な理由がないのに、業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたとき」は処罰される、と定められています。これは医師に限らず、薬剤師・助産師・弁護士など、人の秘密を扱う専門職に共通して課された義務です。
訪問診療の場合、「秘密」に当たる情報は病名やご容態だけではありません。その方が在宅医療を受けていること自体、私たちがそのお宅を訪問していること自体が、ご本人・ご家族にとっては他人に知られたくない情報である可能性があります。だからこそ、行き先を尋ねられたときの返事ひとつにも、配慮が必要になります。

◎「訪問先」と「ご容態」は、肯定も否定もしない
私が日常的に意識しているのは、次の2つの情報は絶対に肯定も否定もしない、というルールです。
①どなたを訪問しているか
「○○さんですか?」と聞かれても、肯定も否定もしない。
名前を出さずに会釈で受け流す。
②ご容態がどうか
「調子が悪かったの?」と聞かれても、症状や経過は語らない。
「ご心配いただきありがとうございます」で止める。
ここで肯定や否定をしてしまうと、たとえ「いいえ違います」と答えたとしても、消去法で訪問先が推測される可能性が残ります。「お答えしない」のではなく「そもそも話題にしない」――そういう所作を心がけています。
◎沈黙にも、温度がある
プライバシーを守ることと、ご近所の方に不信感を持たれることは、別のことです。表情・声のトーン・会釈のしかたで、「事情があってお話しできないけれど、お声をかけてくださったお気持ちは確かに受け取りました」というメッセージは必ず伝えるようにしています。
ぶっきらぼうに「お答えできません」と切ってしまうと、お声がけくださった方を傷つけてしまいますし、結果として地域で在宅医療への警戒感が広がりかねません。沈黙にも、配慮の温度があります。
◎お看取りの場面では、なおさら配慮が問われる
特にお看取りや終末期の場面では、ご家族の心の準備が整わないうちに、ご近所の方からお悔やみや問い合わせが来てしまうと、ご家族の負担を一気に増やしてしまいます。お亡くなりになったことをいつ・誰に・どう伝えるかは、ご家族にしか決められないご判断です。私たちはその時間と選択肢を守るために、できるだけ静かに、できるだけ目立たないように出入りすることを心がけています。
■ご家族にお伝えしておきたいこと
訪問診療を受けておられるご家族の中には、「ご近所にどう思われているか」「あの先生はちゃんと配慮してくれているか」と、ふと気になる瞬間があるかもしれません。お伝えしておきたいことを2つだけ書かせていただきます。
◎当院は、ご近所からの問い合わせには原則お答えしません
訪問診療では、エレベーターやマンションの廊下で、ご近所の方から「あのお宅、最近お見かけしないけれど大丈夫?」とお声がけいただくことがあります。お気持ちはありがたい一方で、私たちは原則として、訪問の有無・ご容態・お亡くなりの事実などはお伝えしません。ご本人・ご家族のご意向なしに私たちから外部へお話しすることはない、とお考えください。
◎「誰にいつ伝えるか」はご家族のペースで構いません
特にお看取りの後は、ご親族・ご友人・ご近所への連絡を、どの順番でどの範囲までするか、ご家族のお気持ちは揺れて当然です。私たちはその時間を急かしません。お部屋に出入りする際にも、表札の前で長く立ち話をしない、白衣や名札を玄関の外では目立たせない、といった配慮を続けています。「ご近所の方にバタバタとお気づかいさせたくない」というご希望は、遠慮なくお伝えください。
■医療・介護従事者の皆さまへ|現場で実践している小さな配慮
同じく在宅を支えてくださっている訪問看護師、ヘルパー、ケアマネジャー、リハビリ職、薬剤師の皆さまにも、当院で日常的に行っている配慮を共有させてください。当たり前すぎる内容も含みますが、改めて言語化することで、新人スタッフへの教育や、自分たち自身の振り返りに役立てていただければと思います。
◎マンションのエレベーター・廊下・郵便受け前での所作
- 同乗者がいる前でカルテや書類を開かない
- 患者さんのお名前・部屋番号を口に出さない
- スマートフォンの通話は、エレベーターを降りて誰もいない場所まで移動してから出る
- 訪問先の表札の前で立ち話をしない(事前打ち合わせは車内・玄関外で済ませる)
◎訪問先での名乗り方とインターホン対応
- インターホンでは「○○さんですか」と相手の名前を確認しない(こちらから先に「ごうホームクリニックです」と名乗る)
- 廊下に響く声量で大きな名前呼びはしない
- 状況に応じて、訪問着・バッジはエントランスを出る前にしまう/目立たない状態にする
◎制服・名札・車両の取り扱い
- ロゴ入りの白衣・ベスト・バッグは、訪問先を出たら表に見せない状態で移動する
- 訪問車両を集合住宅の真ん前に長時間停めない(近所の方が訪問先を特定しやすくなる)
- 訪問記録・タブレット端末・紙書類は、必ずバッグの中、画面ロック状態で持ち歩く
◎お声をかけられたときの「型」を持っておく
その場で考えるとつい話してしまうので、声がけへの返事は事前に「型」を決めておくと安全です。当院で共有しているのは次のフレーズです。
声をかけられたときの定型応答(例)
- 「ご心配いただきありがとうございます。ただ、こちらからはお伝えできないことになっておりまして……」
- 「ありがとうございます。ご家族から直接お話があるかもしれませんので、しばらくお待ちいただけますか」
- 「お気遣いいただき恐縮です。お声をおかけくださって、ありがとうございます」
いずれも、相手の善意は受け止めながら、患者さんを特定する情報は出さない構造になっています。
■当院が大切にしている考え方
◎「目立たないこと」も医療の質の一部
訪問診療は、患者さんの生活の場に医療を持ち込ませていただく仕事です。「家の中での医療の質」だけでなく、「ご自宅に出入りする私たち自身が、患者さんの生活にどれだけ影を落とさずにいられるか」も、医療の質の一部だと当院では考えています。
患者さんやご家族が、訪問診療を受けていることをご近所に知られたくない、と希望されるご事情も少なくありません。お亡くなりになった直後に、近所の方から立て続けにお悔やみを言われるのが辛い、というご家族のお声もあります。私たちは、そのお気持ちを尊重し、できる限り静かに、丁寧に、ご自宅を訪問させていただきたいと考えています。
◎守秘義務は「最期の瞬間まで」続く
医師の守秘義務は、患者さんがお亡くなりになった後も消えません。ご逝去後のご様子、ご家族のお気持ち、お葬式の予定など、いずれも私たちから外部に語ることはありません。お看取りの後、私たちが静かに荷物をまとめて、できる限り目立たないようにお部屋を出るのも、この守秘義務の延長線にある所作です。
■まとめ|善意のお声がけと、静かなお辞儀のあいだに
ご近所からの「○○さんのお宅に行かれるんですか?」というお声がけは、人と人とのつながりが残っている、地域の素敵な風景です。同時に、訪問診療医にとっては、患者さんのプライバシーを守るための小さな試練でもあります。
私たちが沈黙したり、お茶を濁したりするのは、決して無愛想なのではなく、患者さんとご家族を最後まで守るための姿勢です。もしマンションや一軒家の前で当院のスタッフを見かけて声をかけてくださったとき、私たちが多くを語らなかったとしても、どうかその意図を汲んでいただけますとうれしいです。
ご家族の皆さまには、こうした配慮を「黙って」続けているのが私たち訪問診療医だ、ということを知っておいていただけたら幸いです。ともに在宅を支える医療介護スタッフの皆さまには、毎日の小さな所作を改めて見直す機会になれば嬉しく思います。
当院では、こうした日常の細かな配慮を、毎月のスタッフミーティングや事例検討の中で言語化し、新人教育にも組み込んでいます。訪問診療を検討されているご家族、また、当院との連携を考えてくださっている医療介護機関の皆さまには、ご相談の際にこうした配慮についてもぜひお伝えできればと思います。
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ごうホームクリニック
院長 伊藤剛

