転んで手をついて手首を折ってしまった。重い物を持ち上げようとして肩を痛めた。骨はきれいに治ったはずなのに、退院してから親の表情が暗くなり、料理を作らなくなり、人と会いたがらなくなった。そう感じているご家族は、決して少なくありません。
大腿骨を折って寝たきりになる、という話はよく知られています。しかし手首や肩といった上肢の骨折は「歩けるのだから大丈夫」「ギプスが取れたら戻る」と見過ごされがちです。整形外科の通院は終わったのに、何かが戻らない。そのもどかしさの正体は、医学的にも臨床的にも、少しずつ言葉になってきています。
訪問診療の現場で私たちが繰り返し見てきたのは、上肢の骨折が「動けなくなる骨折」ではなく「役割を奪う骨折」だという事実です。料理・洗濯・庭仕事・編み物・孫の世話。その人がその人らしくいられるための小さな営みが、片手を失うことで一度に止まります。そして役割が止まると、心が沈みます。
この記事では、上肢骨折後に起こる心の変化のメカニズム、訪問診療が果たせる役割、そしてご家族が「受け入れる苦しみ」と「変わる苦しみ」にどう向き合えばいいかを、臨床経験と医学文献の両面からお伝えします。
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目次
■「立つ」より「使う」が奪われる骨折
◎大腿骨骨折と上肢骨折は性質がちがう
骨折にもいくつか種類があります。なかでも社会的によく知られているのが大腿骨頸部骨折で、これは「歩けなくなる」「寝たきりになる」というイメージで語られます。実際、転倒から寝たきりへの最短ルートとして警鐘が鳴らされてきた骨折です。
一方、上肢の骨折、つまり手首の橈骨遠位端骨折や肩の上腕骨近位部骨折は、入院期間も短く、ギプスや三角巾で固定して通院でフォローされることが多いため、表向きには「軽い骨折」として扱われがちです。歩けるし、食事も口に運べる。命に関わるわけでもない。
しかし、訪問診療で日常生活に入り込んで見えてくる現実は違います。歩けても、ペットボトルの蓋が開けられない。食事はできても、その食事を作れない。お風呂には入れても、髪を洗うのに苦労する。問題は「動けるか」ではなく「使えるか」に移ります。

◎失われるのは「役割」である
人は生活の中で、無数の小さな役割を担っています。朝ごはんを作る、洗濯物をたたむ、家計簿をつける、孫に編み物を教える、墓参りで雑草を抜く。これらは医学用語でいえば IADL、つまり手段的日常生活動作と呼ばれます。
上肢の骨折は、まさにこの IADL を狙い撃ちにします。片手が使えなければ、包丁を持って大根を切ることも、洗濯物を干すことも、植木鉢を持ち上げることもできません。基本的 ADL である「食べる・排泄する・着替える」は何とか保てても、その人の生活を彩っていた役割が一斉に止まります。
役割が止まるということは、「誰かのために何かをする自分」が止まるということです。家族の中で果たしてきた立場、地域の中で持っていた居場所、自分自身に対する評価。これらが一気に揺らぐ瞬間に、心の不調は静かに始まります。
■なぜ「家事ができない」が心を蝕むのか
◎役割喪失型の苦しみ
大腿骨骨折後の苦しみが「動けない苦しみ」だとすれば、上肢骨折後の苦しみは「役立てない苦しみ」です。私たちはこれを臨床的に「役割喪失型」と呼んでいます。
役割喪失型の特徴は、外から見えにくいことです。歩いている、しゃべっている、検査の数字も悪くない。だから周囲は「治った」と判断します。しかし本人の中では、毎朝台所に立てない違和感、孫を抱き上げられない無力さ、夫の食事を作ってあげられない申し訳なさが、日々積み重なっていきます。
この積み重なりが、ある日、抑うつとして表面化します。気力がわかない。食欲が落ちる。眠れない。出かけたくない。すべてが面倒くさい。整形外科では「骨はきれいについています」と言われ、家族には「もう治ったでしょう」と励まされる。そのギャップが、本人をさらに孤独にします。
◎「変わってしまった自分」を受け入れることの困難
上肢骨折後の心の沈みは、ただ家事ができないことだけが原因ではありません。「以前のように何でもできていた自分」と「今の自分」のあいだの距離を、本人が一人で埋めなければならないことが、最も苦しい点です。
人は変化を、頭で理解することと、心で受け入れることの両方が必要です。骨が折れて治って、機能が一部戻らないという事実を、頭では分かる。けれど、それを抱えて新しい自分として生きていくことには、別の時間がかかります。私たちはこれを「受け入れる苦しみ」と呼んでいます。
そしてもう一つの苦しみがあります。それは「変わる苦しみ」です。包丁を握る代わりに電子レンジを使う。庭仕事を諦めて室内の鉢植えに移る。料理は半分は配食に頼る。これらは生活を立て直すために必要な変化ですが、慣れ親しんだやり方を手放すことは、それ自体が痛みを伴います。
受け入れる苦しみ
以前と同じようにはできない自分を、自分として認めていく痛み。時間がかかり、行きつ戻りつする。
変わる苦しみ
慣れ親しんだやり方を手放し、新しい道具・新しい段取り・新しい役割に移っていく痛み。
■医学文献から見える事実
◎上肢骨折と抑うつの関係は研究されている
「家事ができないと気持ちが沈む」という臨床現場の実感は、医学研究によっても少しずつ裏付けられてきています。上肢骨折と心理状態の関係を扱った主要な研究には、次のようなものがあります。
橈骨遠位端骨折、つまり手首の骨折を対象にした前向きコホート研究では、受傷直後の抑うつ症状の存在が、一年後の手の機能スコアの悪化を予測する最も強い因子であることが示されています。ベースラインで抑うつ傾向のあった患者さんは三ヶ月時点でも回復が遅れ、一年経っても機能スコアが伸び切らない傾向が報告されています。
また、女性を中心とした大規模な観察研究では、手首の骨折を経験した方は、骨折のなかった方に比べて、料理を作る、重い家事をする、階段を昇る、買い物に行く、車に乗り降りするといった日常活動で機能低下が生じやすいことが確認されています。注目すべきは、低下するのが基本的な ADL ではなく、まさに IADL の領域だという点です。
上腕骨近位部骨折、つまり肩の骨折についても、長期の固定と機能喪失が抑うつ、社会的孤立、自立性の低下を引き起こすことが系統的レビューでまとめられています。心理社会的支援を治療計画に組み込むことの重要性が、欧米の専門誌で繰り返し提言されています。
◎介入の空白は受傷後数ヶ月ある
これらの研究が示すもう一つの重要な点は、心と機能の回復には共通の時期があるということです。上肢の機能、認知機能、気分の落ち込みは、受傷後おおむね数ヶ月のあいだに最大限の回復をみせる、と縦断研究で報告されています。逆に言えば、この時期に何の介入もなく放置されると、抑うつが慢性化し、機能回復も頭打ちになります。
訪問診療の立場から見ると、ここに大きな含意があります。整形外科の通院は骨が癒合した時点で終わります。しかし本人と家族の生活の立て直しは、まさにそこから始まるのです。
■訪問診療だからこそできること
◎診療室では見えないものを見る
骨折後の心の問題を発見する難しさは、診察室にあります。整形外来では数分の問診と画像確認で「順調です」と告げられ、「最近どうですか」と聞かれても、本人は「ええ、まあ」としか答えません。家族が見ている家での沈黙、夕食の支度を放棄した冷蔵庫、洗濯機の前で立ち尽くす姿は、診察室には届きません。
訪問診療は、その人の生活の中に入っていきます。台所の様子、テーブルの上のもの、本人がいつも座っている椅子の向き、家族の表情。これらが診療の情報になります。骨折後に「料理が止まったままになっている台所」を見れば、たとえ本人が「大丈夫」と言っても、私たちは次の一歩を考え始めることができます。
◎受け入れる苦しみと変わる苦しみに、時間をかける
私たちは、すぐに答えを出そうとは考えていません。「これをすれば気持ちが上向きます」「この道具を使えば家事ができます」と急いで処方箋を出すことは、かえって本人の苦しみを置き去りにします。
訪問診療の役割は、まず話を聞くことです。何ができなくなって悲しいか。何を諦めかけているか。誰に申し訳ないと感じているか。それを言葉にしてもらえる場をつくることが、抑うつへの最初の介入です。そのうえで、抑うつ症状の評価、必要に応じた精神科治療への橋渡し、作業療法やリハビリテーションとの連携、家事の段階的な再開計画、ご家族との役割分担の話し合いを、その人のペースに合わせて重ねていきます。
私たちが大事にしているのは、「ともに前に進む」という姿勢です。本人が一人で受け入れるのでも、家族だけで支えるのでもなく、医療者を含めたチームで、変化のプロセスを並走する。それが訪問診療というかたちの強みだと考えています。
■家族にできること、しなくていいこと
◎「頑張れ」より「一緒にやろう」
ご家族から最もよく聞かれる質問は、「どう励ませばいいか」です。私たちのお答えは、励ますよりも、並ぶことです。
「もう治ったんだから頑張って」「いつまでもくよくよしないで」という言葉は、本人を孤独にします。本人にとって、骨が治ったことと心が治ることは別の出来事です。代わりに、「最近どんなことが大変?」「今日は何ができた?」と、本人の現在地を一緒に確認する声かけが、はるかに大きな支えになります。
そして、すべてを家族が代わりにやろうとしなくて構いません。本人ができることを奪わない、できなくなったことを責めない、できるようになりつつあることを一緒に喜ぶ。この三つだけで、回復の風向きは変わります。
◎専門家を頼ることは、家族を守ることでもある
抑うつや不安は、家族の力だけで何とかしようとすると、家族の側が疲弊します。介護者自身がうつ状態になることは、訪問診療の現場でも珍しくありません。
訪問診療や訪問看護、ケアマネジャー、作業療法士、必要に応じて精神科医、これらの専門職を早めに巻き込むことは、本人を支えるだけでなく、家族自身を守ることでもあります。私たちごうホームクリニックは、名古屋市天白区を拠点に、名古屋市内および尾張東部・西三河南部西の三つの二次医療圏にまたがる地域で訪問診療を行っています。骨折後の生活の立て直しという、整形外科の外側で起きている課題に、医療として並走できる体制を整えています。
■よくあるご質問
◎Q. 手首を骨折してから親の口数が減りました。受診すべきでしょうか。
A. はい、ぜひご相談ください。骨折後の抑うつは「気のせい」ではなく、医学的に観察されている現象です。早めに評価することで、慢性化を防ぎ、生活の立て直しの選択肢が広がります。
◎Q. 整形外科で「治った」と言われた骨折でも、訪問診療の対象になりますか。
A. なります。訪問診療の役割は骨そのものの治療ではなく、骨折後の生活全体の支援にあります。家事ができない、気力が出ない、外出が減ったといった変化に対して、医療と生活の両面から関わります。
◎Q. 本人が「自分は大丈夫」と言って受診を嫌がります。
A. よくあるご相談です。本人にとって「医療を受ける」ことは「弱った自分を認める」ことと結びつきやすく、抵抗が生じます。訪問診療は本人が自宅という慣れた場所にいながら相談できるため、心理的なハードルが下がりやすい形態です。まずはご家族からのご相談だけでも構いません。
◎Q. 抑うつかどうか、家族でどう見分ければいいですか。
A. 二週間以上にわたって、気分が沈む、興味や喜びを感じにくい、食欲や睡眠の変化、自分を責める言葉が増える、といった変化が続く場合は、医療的な評価をお勧めします。本人が認めなくても、家族から見て「以前と違う」と感じる時点で、相談する価値があります。
■私たちが大切にしていること
骨が治っても、心が立て直されるには別の時間が必要です。手首や肩を折って、家事ができなくなり、役割を一時的に失う。そのプロセスは、本人にとって「受け入れる苦しみ」と「変わる苦しみ」のあいだを行き来する、長い旅です。
私たちごうホームクリニックは、その旅に並走する訪問診療を行っています。すぐに答えを出すのではなく、その人の生活の中に入り、その人のペースで、医療と生活と心を一緒に立て直していく。それが、私たちの考える在宅医療のかたちです。
「最近、親の様子が以前と違う気がする」。その違和感を抱えていらっしゃるご家族は、どうぞ一度ご相談ください。受け入れる苦しみも、変わる苦しみも、一人で抱える必要はありません。
■参考文献
本記事は、以下の医学文献および臨床ガイドラインを参考に作成しました。学術的な詳細については原著論文をご参照ください。
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Edwards BJ, et al. Functional decline after incident wrist fractures—Study of Osteoporotic Fractures: prospective cohort study. BMJ. 2010. (手首骨折後の女性における家事・買い物・階段昇降など IADL 領域の機能低下を示した大規模前向きコホート研究)
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Roh YH, et al. Role of Depression in Outcomes of Low-Energy Distal Radius Fractures in Patients Older Than 55 Years. Journal of Orthopaedic Trauma. 2017. (橈骨遠位端骨折後の抑うつが一年後の手の機能予後を最も強く規定することを示した前向き研究)
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Roh YH, et al. Depression affects the recovery trajectories of patients with distal radius fractures: A latent growth curve analysis. Journal of Hand Surgery Global Online. 2019. (抑うつが手首骨折の回復軌跡そのものを変えることを示した縦断解析)
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Bot AGJ, et al. Underlying Mental Illness and Psychosocial Factors Are Predictors of Poor Outcomes After Proximal Humerus Repair. Journal of Orthopaedic Trauma. 2019. (上腕骨近位部骨折の予後を精神疾患・心理社会的因子が左右することを示した観察研究)
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Quality of Life and Pain after Proximal Humeral Fractures in the Elderly: A Systematic Review. Medicina. 2023. (高齢者の上腕骨近位部骨折における QOL・疼痛・心理社会的影響に関する系統的レビュー)
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Araki Y, et al. Relationship between depression improvement and activities of daily living recovery in patients with fractures. Psychiatry and Clinical Neurosciences Reports. 2025. (骨折後の抑うつ症状の改善が ADL 回復に有意に寄与することを示した日本発の縦断研究)
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Distal Radius Fracture Rehabilitation: Clinical Practice Guidelines. Journal of Orthopaedic & Sports Physical Therapy. 2024. (米国理学療法協会による橈骨遠位端骨折リハビリテーション臨床ガイドライン。抑うつを含む心理社会的因子を予後不良因子として明記)
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